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ゆうあい工房

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「民権ばあさん~楠瀬喜多と女性参政権」

高知の片隅から、明治の土佐の女達の活動をお話しいたしましょう。よろしければ、皆さんもこの文章を利用して講釈いただければ嬉しうございます。


皆さんはご存知ですか?
高知市上町、第四小学校正門西側に「婦人参政権発祥之地」があることを・・・
その場所にはかつて上町町会所がありました。ここで、日本で最初の女性による投票がおこなわれました。

皆さんは選挙で女性の政治参画を訴える候補者の声を聞きませんでしたか?
女性は、太平洋戦争終結後、日本国憲法の制定によって初めて選挙権を得たのです。
人口に占める割合は若干女性が多いもののほぼ半数であると思われます。
しかし、議席を占める女性議員の数は少ないですね。
1946年初めての女性参政権による衆議院選挙投票で初めて政治の場に女性議員が登場しました。総議員数466人中、39人、占める割合は8.4%でありました。
翌年の参議院選挙では,総議員数250人中10人、4.0%であります。
現在、衆議院議員における割合は2009年の選挙で総議員数480人中54人です。11.3%ですよ。
参議院では2010年の選挙で、総議員数242人中、44人で18.2%です。
以前より増えていますが、男女共同参画が言われる現在でも、まだまだ女性議員は少ないですね。


1871(明治4)年、文明開化を求めて、中江兆民ら多くの留学生がヨーロッパ、アメリカへと派遣されていきました。彼らが帰国し、新しい文化を日本に持ち帰ったのであります。ヨーロッパではフランス革命後で、自由・平等が謳歌されていました。その思想が多くの書物と一緒に日本国内にないって来たのであります。

考え方の違いで、明治政府から野に下った板垣退助がいます。故郷高知は、彼を中心に、自由民権運動が盛んになっていったのであります。高知市内に立志社・嶽洋(がくよう)社・発陽社など数多くの民権結社が作られたのであります。
自由民権の学習書として中江兆民の翻訳したルソーの「民約論」が使われました。
まさに自由民権の炎は土佐から日本各地へ燃え広がっていきました。

1877(明治10)年、河野広中は「南海紀行」に立志社公開演説会に女性の席があり、傍聴に訪れた女性たちが多く、女性の傍聴席の拡張を求められたと書いております。
楠瀬喜多も、土曜日ごとに開催された立志社の演説会の常連であります。

1878(明治11)年8月14日付の大阪日報によると、
「高知城下において各月20日より、州議会が開かれ、その傍聴人の中に一夫人がいる。某氏の婦人であるが、最も民権に熱心で1日も欠かさず。弁当持参で膨張に出かけている」とあります
同じ年の9月16日付で、「納税ノ儀ニ付キ御指令願ノ事」を内務省に提出したのが楠瀬喜多であります。この文章は翌年1月26日の「大阪日報」に森田時之助の投書により発表され、喜多の名前は知られるようになりました。



喜多は天保7年(1836年)米穀商の娘として生まれ、21歳の時、土佐藩剣道師範楠瀬実と結婚しますが、17年後・喜多38歳の時に死別しています。
喜多の住む地域の区会議員選挙に、亡き夫に代わり戸主として投票に行った時、女性は戸主であっても投票権はないと拒否されました。
「権利と義務は両立するものであり、権利の伴わない義務の必要はない」つまり、税を納め戸主として男性と同じ賦役にも参加しているのに戸主の権利である選挙権を女であるため拒否されたことから、義務としての納税をしませんでした。そこで脳是を督促されて、「納税ノ儀ニ付キ御指令願ノ事」の文書を提出したものです。

「資料」
外崎光広先生の『土佐の自由民権』によれば、
楠瀬は未亡人の戸主として小区会議員選挙に投票権を主張したが拒絶された。そこで税の怠納戦術をとり区務所の厳しい督促を受けたので、明治11年(1878)9月16日、「男女同権」を認めるなら納税する、回答を待つと文書により要請、県庁は正式に否認し納税を督促した。楠瀬喜多のこの行動は、土佐の女性が初めて政治活動にたちあがった画期的な事件で、経緯は、一件資料とともに翌12年1月26日の「大坂日報」に報道され、「東京日日新聞」(1月31日)、「横浜毎日新聞」(2月1日)などにも掲載された。「読売新聞」(1月31日)も顛末のみを報道した。
男女同権の女性参政権につき願書
〇人、髯(ひげ)あるが故に貴(たつ)とからず、才智あるを以て貴しとせん。茲(ここ)に其名も高知立志社へ土曜日毎(ごと)に有志輩の開会せる演説は、多く民権自由のことを説かれ、傍聴人は大概男子なりしが、亦(また)茲に才智衆に勝(すぐ)れて、殊に腕力強勢なる婦人にて、長の月日も惰(おこた)らず、如何なる暑寒も厭(いと)ひなく、衆を励まして吾先(われさき)にと、恰(あたか)も弁財天が男神の中に一人在(いま)すが如く毎席来聴ある高知唐人町住士族楠瀬きた氏は、今戸主なりしが、兼(かね)て頗(すこぶ)る男女同権論を唱張せしに、昨年区会議員を撰挙するの時に当り、氏も之を撰挙せんとせしところ、区戸長より、婦女は戸主と雖(いへど)も撰挙するの権なし、加ふるに証書の保証人に立つ
事相成(あひな)らずとの趣を指令せしを不服にて、然(しか)らば同権なきに男子並(なみ)
に戸税を奉納するの義務は尽し難しとて、竟(つひ)に高知県庁へ男女の権利差異有無の儀
あきらかに相分り侯様御指令ありたしと奉願し、此頃指令ありたれば、今其願書、御
指令書共(とも)左に写して投寄すと、同国の森田時之助氏より。
税納ノ儀ニ付御指令願ノ事
曩日(のうじつ)以来税納ノ義ニ付区務所ヨリ迅(はや)キ促(うなが)シアリシカドモ不服ノ事訳(ことわ)ケ有之(これある)ニ付(つき)、其(その)示シ聞ケニ応ズルコト最(いと)モ難(かた)ク候ニ付、其筋左(さ)ニ申上侯。
私儀婦女ノ身分ニ候得共(さうらへども)、一戸ノ主(ある)ジニ候上ハ諸般ノ務(つと)メ且(か)ツ政府ヨリノ御取扱(おとりあつかひ)ヲモ男女同(おなじ)キ権アルコトハ喋々敷(てふてふしく)言フヲマタザル義卜推シ定メ罷(まかり)アリシ処、渾(すべ)テ其儀ニ非ズ、区会議員ヲ撰ムノ権利モナク、加フルニ実印ヲ持ツモ証書保証人ニ立(たつ)事モ不相成(あひならざる)趣、之(こ)レ最モ尋常ノ戸主ト権利ノ差(たが)イアルノ多キ処ニ御座候。然ルニ権利ト義務ハ両立スベキ道理ナレバ、議員ヲ撰ムノ権利アレバ税ヲ納ムルノ義務アルハ之レ公(おほや)ケ均(ひと)シキ筋合ノ然ラシムル処ニ之レアルナリ。然ル処、私儀ハ議員ヲ撰ムノ権利モ無ク、将(は)タ証書保証人ニ立ツノ権利モナクシテ、男子ノ戸主ト比べ視レバ権利ヲ蔑(なみ)サレタルコト最モ甚シ。然ルヲ税ヲ収ムルノ義務ノミ男子戸主並(なみ)ノ促シアルハ公ケ均シキ御取扱ト覚ヘズ。是則チ税ヲ収ムルノ理ナキト慮(おも)フ不服ノ要ニコレアルナリ。故ニ区務所ニ出テ右ノ訳合(わけあひ)陳(の)ベ述(のぶ)レ共(ども)、男子ハ兵役ノ義務ヲ負担スレドモ婦女ハ其義務ヲ負担セザルニ付、爰(ここ)ニ於テ男女ノ権利異ルナリト区戸長中ヨリ示シ聞ケラレタレドモ、之レ又(ま)タ服スルニ難(かた)キナリ。何トナレバ、男子ト雖(いへ)ドモ戸主ハ徴兵ノ義務ヲ免カルレバナリ。故ニ不服一層勝リ不得止(やむをえず)御指令願出候ニ付、速ク御詮議相蒙リ申度(まうしたく)、私ニ於テハ前々陳(の)ブル如ク、婦女ハ権利ノ無キモノナレバ税ヲ収ムノ義務モ又男子ノ並(なみ)ニハ尽シガタク、将(は)タ男女同権ニ候得バ収ムル税モ男子ノ並(なみ)ニ相尽シ其義務相立(あひたて)可申(まうすべし)ニ付キ、男女之権利差異ノ有ル無シ晰(あきら)カニ相分リ候様公(おほや)ケ平(たひ)ラカナル御指令相蒙リ申度(まうしたく)、此段奉願(ねがひたてまつり)候也。
土佐国第八大区二小区唐人町二番地居住
士族楠瀬喜多
明治十一年九月十六日」

朱書指令(明治十一年九月廿一日)
書面ノ趣納税ノ義ハ国法ノ定則有之(これあり)一般人民ノ義務ニシテ、権利ノ軽重ニ依テ増減スベキ成規無之(これなき)ニ付、是迄未納ノ地租並ニ民費賦金共速(すみやか)ニ相納可申(あひおさめまうすべき)事。但、相対(あひたい)契約ノ証書ヘ保証人ニ相立(あひたつ)事能(あた)ハザル儀ハ無之(これなく)侯事。
○ 右の五指令「=御指令」猶ほ分明ならずとて、楠瀬氏は復(ま)た此度(このたび)内務省へ右の趣き奉願したる由に聞く。中々一物ある婦人とは思はれずや。
〔『大坂日報』明治十二年一月二十六日〕__

日本で最初に女性参政権を訴えた文章です。
これをきっかけに、女性の参政権問題が提起されたといってよいでしょう。




1878(明治11)年、地方官会議で女性に府県議会議員の投票権を与えるという提案がされましたが、否決されました。

その提案否決の賛成者、熊本県大書記官北垣国道が、翌年高知県令になり、その在任中に上町町議会規則の婦人参政権問題が起こり、婦人参政権が実現したのは皮肉な歴史の巡り合わせであります。

1880(明治13)年「区町村会法」ができました。
「地域の事情によって、区町村規則を作ることができ、府知事県令の許可があればよい」というものでした。
同年6月16日,それにもとずいて、当時の土佐郡上町町会で町会議員選挙の選挙・被選挙権を男女同権とする会則を制定し、県令の裁定を求めました。ただし、戸主に限定でありました。
県令は女性の参政権を削除・訂正を加えましたが、上町の人々は3か月にわたりやりあい、ついに1880年(明治13年)9月20日、女性参政権を県令に認めさせたのであります。

日本で初めての女性参政権が実現したのです。

ついで、隣の小高坂村でも女性参政権が実現しました。この運動は、地域の民権運動家が中心となって起こしたものです。これらの地区には、坂本南海男・小畠稔・植木枝盛・近藤正英(マサフサ)ら民権家が住み、町村会議員でもありました。

当時、女性参政権を認められていた地域はアメリカのワイオミング準州や英領サウスオーストラリアやピトケアン諸島といったごく一部であったので、この動きは女性参政権を実現したものとしては世界で数例目でありました。

しかし、1884(明治17)年、政府が「区町村会法」を改正し、地方の規則制定権をなくし、男性にのみ選挙・被選挙権を限定したため、高知の女性の参政権は4年間で消滅してしまいました。その間この2つの町村会では現代のように女性が男性を、男性が女性を投票したとの記録があります。

政府により新たな市町村制が施行され、女性の参政権が外されたことを知り、自由民権家で歯医者織田信福の妻、山崎竹は「自治制施行ニツイテ感アリ」を翌年土曜新聞に寄稿しております。
その中で竹は、「国民の半分は男と女、男女は平等である。子育てをするのは母であるじょせいである。その母親である女性が日本のことを知らなくて、どうやって将来を担う子供を育てることができますか・・・」と述べています。

当時の女性に対する世相を知るものとして、東雲新聞紙上で竹と吸江女史が論争しています。吸江女史が何者であるかは分かっていません。吸江女史は男性ではないかと推測されますが・・・2人の論争を再現してみましょう。

吸「今様の婦人に一言申す。
  最近流行の女権伸長ち何ぞね。男女平等云いもって、婦人を抑圧しゆう男の力を借らんと何ちゃあ ようせんじゃいか。
欧米夫人は高い教養を身に付け男に頼らんでもようなってから女権ということを云いゆう。
日本婦人は心身とも男から独立しちゃあせんに外面ばあ権利ゆうたちいかん。それよりまず、じぶんをみがきや」

竹「謹んで吸江女史に質(タダ)す。
  吸江女史にもの申す。女権伸長の方法が、木に上りて魚を求むじゃ云うけんど、男でも婦人の権利を伸ばいたら、本当に日本のためになるとおもうちゅう人はおるがぞね。
そんな人らあと一緒にやることは何ちゃあもんだいじゃないき。それと、もっと勉強せなあいかんというのは分かるけんど、黙っちょいても何ちゃあ変わらん。それじゃき私らあは婦人会をつくって、ちっとでも婦人を啓発して女権を伸ばいて、国をえい方向へもっていこうとしゆうがぞね。わかるかね?」

吸「竹女に答う。
  男女協力して社会を変えるゆうて云いゆうけんど、よっぽど、知徳を兼ね備えた人じゃないと、舞踏会場でおきるみたいなゴシップが増えるばあぞね。今の婦人会におる人らあが、そればあの人格者になっちゅうろうか。たまたま同情から一緒にやってくれるひとがおったち、そんなもんがあてになるかね。弱肉強食の世の中で、弱いもんが強いもんに頼りゆうようなもんじゃいか。男は敵じゃき、自分らあばあでやるとゆうばあの気力と智力をもたんとづつ、軽々しゅう女権伸長らあ云うたちいかん。

竹「吸江女史に勧告す。
  まっことあんたも分らん人じゃねえ。だいたい目的の違う舞踏会と婦人会を一緒にすることがまちごうちゅう。男と女が同じレベルになってから女権伸長を計れと云うたち男女とも進歩していくもんじゃき、追い付くまで待ったりできん。下手に男と女を分けて考えるより、理解のあるもん同士協力するほうがよっぽどえいにきまっちゅうろうがね。あんたと私は目的は一緒ながやき、ちんまいことは云わんづつ協力
せんかね。」



女子教育がいきわたってくると、女性は新聞など読まなくてよい、生意気になるなどといわれるようになりました。進歩的な民権家の男性も同様でした。男性は家庭にあって家庭経営を行う良妻賢母を女性に求めていました。
「男子厨房に入らず」はある意味では女子の権利を「厨房」つまり台所にのみ認めたものかもしれませんぞ。

1890(明治23)年7月、集会および政社法が制定され、女性の政治活動は禁止されるようになりました。女性が政談演説会で演説を行うことはもちろん、出席したり、企画することもできなくなりました。そして、高知県婦人会の活動お政治から福祉へ・・バザー開催など慈善活動へと移行していきました。

「1889(明治22)年9月19日、土佐郡潮江村役知の楠瀬喜多方で教育懇談会 喜多、この会のため尽力し、困窮者6~7名の尋常小学校入学斡旋」

記事が土陽新聞に見られます。
民権婆さんとして知られる喜多は困窮し学校に行けない子供たちの就学に努力しました。
男性には気がつかない事なのかもしれません

ところで、多くの自由民権家の面倒を見た喜多でありました。福岡出身の頭山満もそのひとりでありました。
頭山満は自由民権運動に参加し、板垣退助らと交わりがあり、各地を遊説しています。
1879(明治12)年、福岡に政治結社・玄洋社を組織し、大アジア主義を唱え、孫文らを援助し、国家主義者、右翼の立役者として知られる人物であります。

1878(明治11)年、高知の立志社を訪問、2年後再来高した際に喜多の家にホームステイして以来の付き合いであります。

87歳で喜多が亡くなった後、頭山満が筆山に彼女の墓を建立しています。墓には「頭山満建之」の文字が刻まれています。



1990(平成2年)、高知市上町,第四小学校正門前に「婦人参政権発祥之地」の碑が建立されました。
「碑を立てる会」の女性を中心に地元上町町内会の協力により、多くの浄財の寄付によってできたのです。

「4月10日は婦人の日、昭和21年4月10日、日本の婦人が始めて国会議員を選挙しました。この日から私たち女性も男性と等しく国の政治に参与するという画期的な出来事のあった日です。この記念すべき日に婦人参政権発祥の地に顕彰の碑を建立できたことは大きな喜びです。しかもこの碑の建立は女性だけの運動として始まったのですが、上町の男性が加わることにより実現しました。明治の昔,喜多が叫んだ婦人参政権獲得運動が、上町町会の人たちによって実現したように・・・この碑も平成の男女の合作であることに大きな意義があると思います。」
「碑を建てる会」世話人代表の今井清子さんの祝辞であります。

                                            終わり
                          文責:溝渕栄子




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